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| Jリーガー時代のユニフォーム。相手チームと交換したユニフォームもあるとか |
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服部浩紀、1971年8月30日生まれ。180cm、76kg。二児の父。
バルセロナオリンピック日本代表候補。元Jリーガー。
強靭な体を活かしたプレスを武器に、アグレシッブなプレーを得意とした。
FBS福岡放送『夢空間スポーツ』出演。『スカイパーフェクトTV』サッカー解説者。『西日本スポーツ』サッカー評論者として執筆。現『ハットトリック』代表。サッカー指導者。JFA公認B級コーチ。
『ハットトリック (幼児〜中学生向けサッカースクール)』、『ルーヴェン福岡 (ジュニアユースチーム)』、『大人のためのフットサルサークル (30代以上向けフットサルサークル)』のヘッドコーチも勤める。
旧態依然の指導法は行わず、日本式の練習スタイルにヨーロッパスタイル、ブラジルスタイルの練習法を取り入れた画期的な指導法を薦める。広い人脈をもち、毎年スクールの子供もたちを海外研修に行かせている。
一方、「勝つこと」だけを目的とせず、「優れたサッカー選手の育成」という広い視野をもって指導に当たるため、メンタル・フィジカル面は元より身体のケアまでも注意する。そのためか子供の両親からも高い信頼を寄せられている。
3年間にわたって直接指導してきた子供たちは延べ300名にも上る。その中でしばしば痛感させられることは「子供たちの可能性を信じていない両親が多い」こと。
以来、子供達と一緒に夢を追いかけることが服部浩紀の信条となった。


サッカーを本格的に始めたのは小学校4年時。当時はプロになるなんてことは全く考えておらず、あくまで遊び感覚だったという。
やんちゃなさかりで、学校から帰宅するなり外に飛び出し、夜遅くなるまでボール遊びをしていた。遊び疲れては家に帰り、食事・フロ・寝るだけの生活。両親が共働きだっため、食事は自分で作ることが多かったらしい。
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| 10歳より書き続けている『サッカー記録ノート』は総数10冊以上に |
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料理は自分なりに目標を持ちながら創意工夫を凝らし、常に反省点を改善しようとしていた。
「サッカーと料理って似てるんですよね」と、服部浩紀は語る。
『料理ノート』ならぬ『サッカー日記』を当時から書いていたと言うのも、どこか服部らしい。
4歳、離れた兄もいた。
当時の家庭は殆どがそうであったように、貰えるものは全て兄のお下がり。自転車も兄だけが持っている状態だった。颯爽と自転車で走る兄の背中を懸命に追い続けた。
だからこそ自ずと競争心や向上心が培われていったのかもしれない。モノとは与えられるものではなく、努力して手に入れるものだと信じた。モノを手に入れた時は本当に大切に扱った。
サッカーに関しては、自分よりも上手い友達はたくさんいたと言うが、実生活で自然と身についたフィジカル面、メンタル面の強さには絶対の自信があった。
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| 小学生時代の『記録ノート』より。「30勝100得点」を目標に掲げ、「絶対、負けない」ことを誓いに掲げている |
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昔から足は速いほうだったいう。けれど、運動会ではなかなか1位にはなれなかった。勉強も出来るスポーツも出来る、そんな万能優等生がいつも一番だった。それが悔してたまらなかった服部はトレーニングを繰り返した。マラソンは嫌い。でも負けることはもっと嫌い。そんな思いがあった。
そして、6年生の時にとうとう1位になれた。
「両親の英才教育でプロになれたという選手は多いけれど、僕の場合はそうじゃないんです。でも、両親が作り出してくれた環境のおかげでJリーガーになれたことは間違いないですね」

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| 中学入学時の『記録ノート』。小学校時代の目標100得点に満たなかったことを悔やむ |
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本人によれば、プロ選手となるための土台は既に幼少時代から築き上げられていたということになる。
果たして、中学になってから服部の潜在能力は次々と引き出されていった。
中学のサッカークラブではめきめきと頭角を現し、チーム自体は強くなかったものの、服部は県選抜選手、そして関東選抜選手、ジュニアユース代表にも抜擢されることとなる。
やがて実力を認められた服部はサッカー名門校である『帝京高校』、『前橋商業高等学校』から入学を誘われ、前橋商へと進学した。

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| 「前橋商業高」時代のユニフォーム。二度にわたり、全日本ユース代表に選ばれた |
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服部によれば、高校時代は一日5〜6時間は練習していたという。幼少時に育まれた「負けずぎらいの努力家」という性格は、秘められていた才能をますます刺激することとなった。
全日本ユース代表に選ばれること二度。全日本高校選手権大会にも二年連続でベスト4に進出した。
高校卒業後は、筑波大学に進学。関東リーグ優勝3回。関東選手権大会優勝2回。総理大臣杯優勝2回。在学中にはユニバーシアード全日本代表、バルセロナオリンピック日本代表候補にも選ばれている。
そして大学卒業後間もない1994年服部はJリーグ入りを果たし、草創期から約10年間にわたりフィールドを駆け巡ることとなる。Jリーガにおける平均選手生命は5年、引退年齢は25.5歳と言われている中では、極めて異例の選手であった。 |